春時雨のち晴れ  🌈 ゑこおの綴り 🌈

美術館、漫画、放送大学、たまにお題も書きます

終戦の日 8月15日

終戦から今年は77年目

今夏は「蛍の墓」「この世界の片隅に」の

テレビ放送が無かった気がする。

どうした。

 

どうしたと言えば、TAROMAN

テレビをつけたら丁度「疾走する眼」の回を放送していた。

2階に上がろうとしていた夫も、スマホ

いじっていた子ども達も、その場に居た者は

画面に釘付けになっていた。

 

ニヤっと笑えて、ハッとくるタローマンとNHKスペシャル

ような硬派番組、両極端だけど、どちらもじっくり

時間をかけて、丁寧に作成してると思うし、必見の

価値があると思う。

(また岡本太郎氏の言葉が至言やねん)

 

7月だったか、NHKEテレ

テニアン島 玉砕の島を生きて 日本人移民の記録』

の再放送を見た。

前年にも見たのだが、その時は

番組のほぼ後半から見始めた為、

分からない所の方が多かった。

今回の再放送で、ほぼ通しで観ることが

でき、結末の全容が見えた。

 

戦争は愚な行いだと、経験した人々

皆が口を揃えて断言している。

私も同感。

今も過去の凄惨な記憶に苦しみ、

悲しみを背負う人々がいる。

 

我が家が取る新聞は、特に8月は太平洋戦争の

経験者、ご遺族の話がたくさん載る。

体験者はお年を召されてきたが、今も

声のある限り世界に向かって呼びかけて

おられる。これから、そう言った

生の声が将来聞けなくなる事に、

危機を感じるし、この時期は特に

クローズアップして欲しいと思う。

 

 

領土、宗教、水源、政治、

人種の問題に絡む諍いが絶え無い。

目を覆いたくなる様な、悲しみの連鎖が

続いている。

他人の平穏な暮らしに土足で入り、

壊して行くなどもっての他で、21世紀も

これからも、許すまじ。

平和を望む世界の国々が結束し、知恵を絞り、

辛い目に遭う人を増やさないで欲しいと思う。

 

恐れながら、テニアン島の事はこの番組で

初めて知った。

子どもの頃は夏休みや、修学旅行の平和学習の後は、

感想文を書いた事を思い出し、今年はパッドに向かう

ことにした。

 

*ブログは、上記の通り

テニアン島 玉砕の島を生きて 日本人移民の記録』

の映像を見た、個人的な感想です。

 

私の視聴の聞き違い等で、文章に行き違いが有る

かも知れません。不躾なお願いですが、

ご容赦頂けたらと思います。

 

*** *** *** *** *** 

 

テニアン島サイパン島の近く、北マリアナ諸島

中にある。この記録は太平洋戦争時代、テニアン島

移住し、戦後日本に引き上げた、ご本人、ご家族による、

壮絶な戦争ドキュメントだった。

 

テニアン島へ移住した日本人

日本各地から。

当時存在した 南洋興発 という会社が、

テニアン島でサトウキビの栽培および収穫を

する人員確保の為に、移民募集をかけたのが

始まり。と、記憶する。

 

テニアン島、気候は温暖なのでバナナが普通に

家にあって食べたられた。サトウキビも収穫が

出来ていた様子。(バナナは昔、超高級品だった)

戦時の日本にいるよりは、食べ物の苦労は少なかった

様、日本の配給で手に入らない砂糖が、ここにはある。

 

日本で居住していた時よりも、広い戸建に住み、

海外に居ながら、日本的な風習はそのままでの暮らし。

現地生活は潤っていたと、と語った人もいた。

 

ある日状況が一変する

テアニン島に米国軍が上陸。島は戦場となり、

安全な所では無くなった。

そこから日本人移民の壮絶な逃避行が始まった。

 

敵の攻撃が降り注ぐ中、テアニン島のカロリナス(場所の名前)

を目指した。カロリナスは身を潜めるに適した

森林ジャングルと、雨風砲弾を凌ぐ為の洞窟がある。

逃げる場所として相応しいと、選ばれたのだと思う。

 

逃げる途中で親、子ども、自分の家族と逸れてしまった

人がいた。親と逸れてしまい、洞窟内で独り、恐怖と

寂しさに怯える子ども達も少なからずいた。

胸が痛む。

 

避難するも、安心出来る所とは言えなかった

多くの日本人移民、僅かに生き残った日本人兵士が

カロリナスにある洞窟へ逃げ込んだ。飽和状態の洞窟では、

後から来た同胞ににべも無い。

安全で、家族が入れる洞窟を探し求めて、ジャングルの中を

彷徨う家族もいる。

 

洞窟の中の居心地は、良く無い。身を潜めるに、人が

居住できる大きさが必要、食糧と水の確保、衛生上の問題もある。

ここぞと思って、定着しようとしても、近辺が危うくなれば、

又別の洞窟を探す。

 

綺麗な飲み水を得る事が、大変困難だった(想像がつく)

喉が渇いて仕方が無い。水が飲みたいが為に、

目の前の海に行くと言い、洞窟に戻ってこなかった子も。

 

敵の砲弾とは違う恐怖が、洞窟の移民達に

襲いかかった。集団自決だ。

太平洋戦争時、沖縄戦であった事は習っていたが、

場所が変わったとしても、悲痛な事に変わりは無い。

 

島は既に、ほぼ米国軍の手に落ちていたと察する。

テアニン島内のジャングルに身を潜める日本人に、

詳しい戦況など、届いてなかったと思う。

 

洞窟から出て白旗を上げる事、敵に捕まる事、見つかり

殺される事、全てタブー。最悪の事態を回避する為の、

最悪の行為と書いて思う、辛い。

 

まず一番に狙われたのは子ども。特に赤ん坊、幼子は

未だ言葉の理解が足りないから、親が泣くなとなだめ

たとしても、聞き分けが難しい。大きな泣き声を上げる

た時、外敵に隠れ家の場所を知られてしまう恐れがある。

 

なので「始末しろ」と、日本兵が母親達に指示をする。

誰も逆らえ無かった。

 

精神の極限状態の時に、面と向かって言われる…

死なせろ、自決。文字入力していて恐ろしい。

 

(兵士は洞窟内で一番偉そうで、高圧的に

振る舞い、私達に指示をするのかと、子ども心に

何故だと疑問だった、とある人は語った)

 

言う側の精神のタガが、外れている。もしくは

心が恐怖で、支配されてしまっているから。と

言うのは易いかもしれない。見つかって殺される

のは恥だ、生きて日本に戻るな、という背景が

一番大きいと思う。

 

ドンパチの様相をだけを、戦争と言うのでは

ない。

戦争は、人の心を惑わせ、心理の制御が効かない

身心を抉り取られ、精神をすり減らされ、

人で非ずの姿になる、これこそが戦争だと、

改めて突きつけられた。

 

榴弾による自決で、命を絶つ人々もいた。

死にたくない、絶対に嫌だ!と頑なに逃げ回った。

当時は坊やだった、おじいさんが続ける。

 

榴弾を芯に、ギュッと数人がまとまる姿で決行する

。手榴弾の真ん中の人は確実に亡くなる、だけど

死に損ねた人…どんな姿形になったか…

 

地獄絵を小さい眼に焼き付けていた。

 

母親が子を連れて、洞窟集団から少し離れた所に行く。

その行動で、愛しい我が子を、泣く泣く自分の手で

あの世に送ったのだと、周りは悟る。

幾人もの母親の声にも成らない叫び声

慟哭がこだまする。母親達の張り裂けた心とお子達の死が、

洞窟の深い闇に葬られた。

 

手をかけた我が子が、息を吹き返した話が

あった。

老婦人はその後硬く口を閉ざした。

この取材を初めて、13年の歳月が経っていた、

と取材者の言葉があった。

 

その時に、平静で居られる母親は

居無いだろうと、自分でも思う。

 

記憶を振り返り、語る事は非常に辛い

事だ、察するに余りある。

____________

 

トンネルから出て、再び陽を見る

 

一部の移民たちは生き抜いた。そして暗い洞窟から出、

再び大空の元に立てた。

日本軍は壊滅だった。

命が助かった移民の人々は、米軍の捕虜収容所に

送られた。

 

喉の渇きに我慢できず外へ出た幼女、実はあの後

米兵に見つかり保護されて、収容所へ送られた。

髪の毛は短く刈られ、男の子の様な姿で捕虜収容所に

いた。あの日あの時、家族が待つ洞窟に戻って来な

かった我が子と、母親は一目で確信した。

本当に良かった

 

戦争が終わり、収容所へ送られた人々は、そこから

日本へ帰国することができた。

捕虜生活は苦しかったが、日本の故郷に戻って、

心穏やかに暮らすのは、相当難しかったのだと

心中を思った。

 

______________________

 

幾年月が流れ

 

遮るものは何もない。よく晴れた青空が見え、海風が強く

吹き抜ける場所。戦争があったテニアン島の岬、

海近くに立つ慰霊碑に、手を合わせる人々の姿があった。

 

この地で戦争に巻き込まれた、ご家族の方、

ある年配男性は、失った自身の妹の事を、

ずっと想っていると、辛い告白をされた。

 

一家もまた、家族に手をかける選択を

迫られた。母親は父(夫)の手で絶命した。

 

自分は妹に銃口を向けて、引き金を引いたと、

先の男性は告白した。今もその時の妹の姿が、

自分の頭の中に浮かんで、一時も忘れた事など無い。

 

覚悟を決めた妹さんが、お兄さんに言ったセリフと

姿勢に、私も心を抉られた。

 

当時は子どもだった女の子は、おばあさんになり

慰霊の旅で再びテアニン島の土を踏んだ。

この年配女性のお母さんは、日本で天寿を全うされていた。

 

このご婦人の告白も、忘れられない。

再び息を吹き返した赤ちゃんを、2度あやめるなど、

そんな事は出来ん。母は代役を親戚に…拒絶された。

当時12歳の娘は、その役を母親の代わりに負った。。。

(その後の問いが明らかになる事は、娘を更に傷つけ、

苦しませてしまう。。生前の母親は沈黙を貫いた)

 

母の代わりに、(七ヶ月の)弟に手をかけた事、

息絶えてしまった時の、弟の顔は一生忘れられ無いと、

辛い辛い想いを告白し、こう続けた

 

『戦争ってこういう事』

『(戦争)やっちゃいけない』

そのご婦人は毅然とおっしゃった。

 

岬で海風が強く吹き抜けて、その人の髪や洋服が風で、

バタバタとなびいていた。何だか海風が、その人の体を

撫でながら語りかけている様に、見えたし、思えた。

 

**「とてもえらかったね。重い十字架を背負って…」

そこに居た全てのご家族にも、慰める様に…

私もそう、呼びかけたかった。

 

(関西では **えらい は キツい、しんどい、大変、

辛い と言った方言です)

ちなみに「えらい」の前に「ど」が付くと、とてもしんどい

 の意。 

__________

 

別名、リトルボーイ

日本軍がカロリナス島に、建造した2つの飛行場は、

米軍に撤収されていた。日の丸印の戦闘機に代わり、

アメリカ本土から「あの米軍機」がこの島の飛行場に

降り立った。

 

昭和20年8月6日

人類初の原子爆弾を積んだエノラゲイが、元日本軍の

カロリナス島第二飛行場から、広島へ向けて飛び立った。

その3日後 

8月9日 エノラゲイは次に長崎を狙った。

 

6日後15日終戦

 

日本軍が造った飛行場から、エノラゲイが飛びっ立った事実を

私は番組で初めて知り、ただただ絶句した。

 

アメリカから日本への方角で、戦闘機の給油に適した位置に

島があった為と推測するが、飛行場のあまりに皮肉な行く末に、

体がゾワッとした。

 

『戦争ってこういう事』前出のこの言葉を

私は、さらに強く噛み締める。

 

惨劇を繰り返してはならん。

 

 

 

◯参考文献

ありません。